吹き溜まった言葉たち

傷と瞳と蒼い夜

「あいつは、ぼくの親友だったんだ。昔の話だけど」

 僕はあいつの姿を思い浮かべながら、吐き捨てる。なんだってあいつはあそこまで僕に執着するんだ。裏切ったのはあいつなのに。僕をこんな姿にしたのもあいつなのに。僕はいつもやるように、あいつにつけられた傷跡を撫でる。ひりひりして気持ち悪い。

 僕のすぐ傍で、幽霊は暇をもてあましているようだった。自分の髪をいじるのに飽きたのか、今度は僕の髪に手を伸ばす。けれど彼は幽霊だから、さわれる訳もない。骨ばった細い指は、髪を通り越して僕の頭に突き刺さる。

「あのまま殺されてればよかったのかな」

 僕は大概痛みに縁があるらしい。死にそうな感覚は確かにあったけど、それは苦痛じゃなかった。慣れてしまっているのか、僕の痛覚はどこかおかしいのか。どうでもいいことだけど。

「まだ歓迎はできませんね」と幽霊が笑った。僕は笑い返して、膝に顔を埋めた。そりゃあそうだろう。この幽霊は仮にも僕の保護者だ。心の底でどう思っているかまではわからないけど、そうそう死ねなんて言うはずがない……と思う。

「でも、嬉しかったよ」

 僕がつぶやくと、幽霊は少し驚いたような声を出した。僕は頷いて、顔を上げる。前髪が邪魔だ。僕は髪を無造作にかきあげる。「あんたのあんな顔、見られるなんて思わなかった」

 幽霊は呆れたような笑みを浮かべて、僕の髪をいじり続ける。彼の澄んだ赤色の瞳が、なんとなく穏やかな表情をしている。

 しばらく時間を置いてから、「あのさ」と僕は切り出した。幽霊は返事をしないまま、別の方向を向く。けれど指は相変わらず僕の髪にあてられていて、僕は構わず続けた。「あんたのこと、好きだよ」

 幽霊の表情は変わらない。否、僕には確認ができない。

「どんな種類の好きなのかとか、なんで好きなのかとか、わかんないけど」、でも。でも、僕はあんたのこと、好き。呟きながら膝を抱えて、視線を逸らす。今更、何か早まったような気がしてきた。ええい、もう考えるだけ無駄だ。言ってしまったことは相手が聞いている限り取り消せない。

「死んだら、あんたにさわれたかもしれないのに」

 あんたが僕の髪、さわれたかもしれないのに。なんであんたは死んでて、僕は生きてるの。生と死の境界は、あまりにも高すぎる。

「許しません」と、幽霊は冷たい声で言った。死んでるくせに僕より暖かい声をしている彼には本当に珍しいことで、僕は思わず幽霊の瞳を覗き込む。空虚な赤い瞳が、僕のドロドロした赤い目を睨んでいる。同じ赤色の目なのに、なんでこんなに違うんだろう。

「きみはまだ幼い」

 諭すような口調で、けれど冷えた声はそのままに幽霊は語る。僕は何も言わず、幽霊の赤い瞳を見ていた。

「死はただそこにあり続け、無しにすることはできません。わたしには死の記憶がないけれど、でも死んだことを後悔しています」

「ぼくは」

 反論しようとして、僕は諦めた。死を望むのは愚弄だ。それぐらい分かっている。僕はどこぞの悪魔のように弁舌に長けているわけでもない。幽霊から視線を逸らし、言葉を捜す。開け放たれた窓から、青白い月の光が差し込んでいる。おかげで部屋の中は薄暗く青く染まっている。僕の表情を、心を誤魔化してくれる。

「あんたがぼくのことどう思ってるか、大体分かるけど」

 あんたは心を持たない幽霊だものね。きっと僕の想いは届かない。あんたが僕のことを好いてくれても、それは親としてでしょう? 心を持たないあんたの愛、よく分かるよ。

 でも、「ぼくは、多分あんたじゃないと駄目なんだ。よくわかんないけど、これは確信してる」。僕は自分の気持ちが分からない。あいつのせいで、混乱してるのかな。

「それはきっと、きみの目が曇っているんです」

 幽霊は穏やかな声で言う。まるで聞き分けの悪い子供を諭すみたいに――って、実際に僕は聞き分けの悪い子供だ。

「きみが望んでくれれば、わたしはすぐにでも消え去るのに」

 少しだけ寂しそうな笑みで、幽霊は呟いた。僕は思わず目を細めた。何を言うんだ。あんたがいなかったら、それこそ僕は、僕はどうなるの。

「それはぼくが許さない」

「ふふ、わかっていますよ」

 からかうような表情で、幽霊はまた僕の髪に手を伸ばしてきた。冗談だとでも言いたそうな表情に、僕は疑心を抱く。おそらく、今の言葉は本気だ。僕のためだとかなんだとか言って、この幽霊は消えたがっている。でも今までずっと傍にいてくれた。分からない。

「あんたさ」と呼びかければ、幽霊は小首をかしげた。「髪、いじるの好きだよね」。実際にふれている訳じゃないけど、あんたも本当は僕にさわりたいの?

「たぶん、きみの髪は凄く柔らかいんでしょうね」

 幽霊はあっさりと肯定した。僕は思わず笑ってしまう。そういや誰の髪だっていじってたな。生前からの嗜好、か。僕は軽く否定して、ため息をつく。

「あーあ、何かヘンな気分。親父に叱られたみたいだよ」

 そうこぼせば、幽霊は少なからず残念そうな表情をした。親父扱いは流石にされたくないか。幽霊は僕から、ベッドがら離れてしまった。思わず声が出てしまったけど、幽霊は気づいていないようだった。

「傷は痛みますか?」

 くると振り返り、突然そんな事を聞いてきた。僕は傷跡を確かめるように撫でて、そんなに痛みもないことを伝える。幽霊は無表情に僕を見ている。

 痛みはない。痛みはないけど……流石に、疲れた。逃げ回って殴られて、殺されかけて。その行為自体になんの感情もわかないけど、それでも体力はごっそりそがれてる。

 疲労を自覚した途端、痛烈な眠気が襲ってきた。僕は「寝る」とだけ言って、さっさとベッドに横になった。厚いシーツとふかふかな枕。気持ちいい。

「カーテン、閉めましょうか」

「いいよ、別に」

 窓辺に近づいた幽霊に向かって首を振り、僕は彼を呼ぶ。妙にかすれた声だった。幽霊が音もなく(ガタガタうるさい幽霊なんか嫌だけど)近づいてくる。僕は幽霊を見あげる。青白い月光に半分とけている姿は、少しだけ穏やかな表情をしている。

「どうしました?」……言うべきか少し悩んで、僕は「なんか歌ってよ。子守唄でもさ」と、あまり歌わない幽霊に頼んでみた。案の定、幽霊は苦笑している。くそっ、人が恥を忍んで言ってるのに。幽霊はしばらく笑った後、ベッドに腰掛けた。重量も質量も存在しないから、もちろんベッドはびくともしない。

「きみのように上手じゃないですから」と少し恥ずかしそうに笑って、彼は歌いだした。月光のように透明な、命の宿らない声が僕を満たしていく。



(僕があんたを縛ってしまってるんだろうか)

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